×

[PR]この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。

聖なる詩人の島


 フィリスの朝は早い。

 いつも日が昇るか昇らないかという時刻に起床し、朝餉の準備を行う。
別に彼女の主人が、起きて直ぐに朝食の準備が出来ていないと気分を損ねるなどということはないのだが、
それは敬愛する主人に対する彼女なりの誠意の表れであった。

 朝食の準備を簡単に済まし、主人の起床を待つ間、浜辺を散策するのが彼女の日課であった。
エーゲ海の海原は何時眺めても違う顔を見せてくれる。
早朝の涼しい潮風が頬を撫でる感触が、フィリスは気に入っていた。

 それと――あまり胸を張って言える事ではないのだが――、風神と海原女神の落とし仔、
すなわち、エーゲ海の嵐がレスボスの浜辺に打ち上げるガラクタを見つけるのも、彼女の趣味のひとつだった。
これは早朝の散歩でなければいけない。そうしなければ、好奇心旺盛な子供たちが直ぐに見つけてきてしまう。


 ところがその日彼女が見つけたのは、意外すぎる嵐の落し物だった――



「ソフィー先生、フィリスです。浜辺で少女が倒れていたので、介抱し、連れて参りました」

 ノックを聞いて、聖女と呼ばれる詩人、ソフィアは、羽根ペンを持つ手を止めた。
翠色の瞳をドアの方へと向ける。そこへ至って、ああカーテンを開けていなかったな、と思い立つ。

「お入りなさい」

 声をかけると、扉が開く。扉の向こうに立っていたのは、彼女の生徒の一人、フィリス。
気の強そうな溌剌とした眼は、しかし今はなにかを案じるような戸惑いの影が落ちていた。


「……失礼します。さ、アルテミシアさん」


 フィリスは部屋に一歩入ると振り返り、誰かの名を呼んだ。


「あ、はい……」


 促されるまま、一人の少女が入ってきた。歳の頃5,6歳といったところか。
少し痩せすぎではあるが、かわいらしい娘であった。

 ところが、その眼はどうだ。まるで光を映さず、なににも興味がないかのように俯いたまま。
紫色の瞳は闇へと至るかのように深く、冥い。

 幼いながら、辛い体験をしてきたのだろう。虚ろな瞳で、
進められるままに椅子につく少女を見つめながら、ソフィアは静かに口を開いた。


「なにもないところだけれど――」


 少女は顔を上げない。それでいい。心の闇は、簡単には晴れない。


「水と光、愛は満ち溢れてよ」


 ソフィアはゆっくりと立ち上がった。少女がふと目を上げる。
それは恐らく興味というより、動物的な反応だろう。
ソフィアは部屋の奥にある、もう一つの扉に向かって歩いていった。


「ようこそ、ここはレスボス――海原女神と太陽神、腕白き美女神の、聖域」


 言い終え、彼女はその扉を開いた。




 ――刹那、部屋に光が満ちた。


 朝の浜辺から差し込む優しい光。冥闇に慣れきった少女の眼には、
それすらも恐らく刺激が強すぎるものかもしれなかったが――

 ソフィアが少女を見やると、彼女は眼を大きく見開いていた。まるで、初めてその光を見るかのように。
ソフィアは小さく微笑みつつ、少女を見つめていた。
少女の傍らに立つフィリスも、優しい笑みを湛えて少女を見下ろしている。

 やがて、ゆらりと少女が立ち上がった。一歩一歩、覚束無い足取りで、光へ向かって歩いていく。
扉の傍に立つソフィアのことなど、目に入っていないようだった。

 木張りの床を踏みしめ、歩いていく。扉の向こうの浜辺へ踏み出すとき、一瞬躊躇した。
しかし、程なくして、意を決したように、少女は砂を踏みしめた。


 ――そこからは、もう止まらなかった。

歩みは、やがて早足になり。早足は、駆け足となった。
砂に足を取られながらも、海へ向かって駈けていく。
波の音が聞こえる。潮風が頬を撫でる。海鳥の鳴き声が響く。


 何故こんなに気持ちが昂ぶるのか、少女には理解できなかった。
理解できないまま、ただ足を前に投げ出し続け、遂に波打ち際にまでやってきて、彼女は足を止めた。


 なんだろう、ここは。この光が満ち溢れた場所は。ここには、鞭でぶつ人はいないのだろうか。
理由もなく平手をくれる女はいないのだろうか。怖い顔をして襲い掛かってくる男はいないのだろうか――


「貴女が見て来たものも、世の真実――」


 背中から声をかけられて、少女は驚いて振り返った。
優しい笑みを湛えた女性が、少女の肩に手を添え、彼女を見下ろしていた。

 母さまみたい――ふと、彼女はそう思った。


「不条理ばかり訪れる、嫌な現実。されど――」


 女性は、海原に目をやった。目を少し細める。


「世界は、それだけではないのよ?ねえ、ミーシャ。よろしくて?」


 名前を呼ばれた。再び眼差しを向けられた。
何故か、それが引き金となった。

 少女が忘れていた――否、押さえ込んできた感情が、堰を切ったかのように溢れ出してきた。


「ああああああああ!」


 辛い、酷い、痛い、嫌だ。怖い。どうして私が。何故?何故なの?

 それらを言葉にすることなどできようはずもなく――少女は、ただ泣いた。
泣きじゃくりながら、彼女を見下ろす女性の胸に飛び込んだ。
顔をくしゃくしゃにして、ただ、言葉にならない声を上げた。

 ソフィアは、ただミーシャを抱きしめた。回した手で軽く彼女の背を叩きながら、
泣きじゃくる少女の感情の奔流を受け止め続けていた。