スコルピオスの最期:前編
崩れかけた建物の間を彷徨いながら、赤毛の男は星ひとつ見えぬ夜空を仰いだ。
男の名はスコルピオス。かつては雷神ブロンディスが眷族の国、アルカディアの宰相だった男である。
しかし彼に、雷神域の毒蠍と怖れられた智将の面影はいまやない。野望の炎に燃えていたその目に生気はなく、まるで毒を抜かれた蠍のような面持ちだった。
ぽつり、と頬に当たる雨の感触に、まるで幼子のように身を震わせる。辺りを見回し、雨露を凌げる場所を探す。簡素な神殿のような建物が近くにあった。上手い具合にあまり痛んでいない。
雨足が強まってくる。この季節の雨は冷たい。怯えるように屋根の下に逃げ込んで、スコルピオスはようやく一息ついた。
「おのれ……おのれ……」
誰もいないはずの虚空を睨み付け、怨嗟の声を叩きつける。
「この私が……世界の王たるべきこの私が……」
「兄上。……残念です。こんなことになってしまうとは」
騒乱の雷神殿。玉座から立ち上がったスコルピオスに槍を突き付けるのは、精悍な面持ちをした青年。アルカディア第一王位継承者、レオンティウス。
「レオンティウス……っ! なぜこんな早く!」
「ラコニアはアルカディアと正式に和平を締結しました。アンタレス将軍は処刑され、最早ラコニア軍は兄上の傀儡ではありません」
「ぐ……」
敵国と内通していたことまで明るみに出され、スコルピオスは言葉を詰まらせた。
その才能から政治の実権を掌握しつつも、雷神の系譜に名を連ねていないが故、王位継承権を与えられなかった側室の子、スコルピオス。彼はそれを不服とし、直系の世継ぎを謀殺しようと試みた。まず神託を捏造し、生まれた第二王子と第一王女を生贄に捧げ、次に水神眷属の国ラコニアの将軍と結託し、レオンティウスを国境へと追いやった。先王デミトリウスが謀殺され、その実行犯を処刑した彼は、英雄として王へと即位した。
しかしレオンティウスは寸前にそれを察知、ラコニア王と直接和平を締結し、スコルピオスも驚く程の速さで雷神殿への帰還を果たしたのである。スコルピオスは軍を出しこれを遮ろうと試みたが、雷神域の英雄として名を馳せたレオンティウスに、アルカディア軍が刃を向けられるはずもない。戦いは一瞬で決着が着いた。
彼の栄光は刹那にて終わりを告げ、今奪い取った玉座も追われようとしている。
「兄上には先王の暗殺を首謀した嫌疑もかかっております。もしそれが真実ならば――」
レオンティウスの眼差しが鋭くなった。槍を握る手に力が篭る。
「父上を殺した貴方を、私は絶対に許さない」
「ほら、とっとと歩け!」
「貴様等……」
今まで自分に頭を垂れていた兵士に肩を押され、手に枷をはめられたスコルピオスは振り返って彼らを睨み付けた。
「私を誰だと思っている……!」
それを聞いて、兵士達は顔を見合わせ、声を上げて笑った。その内の一人が、にやにやと笑いながら口を開く。
「先王殺しで反逆者のスコルピオス殿下にあらせられますよね」
沸き起こる笑い。別の兵士が言葉を繋ぐ。
「殿下、早く地下の自室にお戻りください。格子が付いておりますがね!」
前にも増して大きな笑いが沸き起こった。あまりの屈辱に、スコルピオスは目を閉じ唇を噛み締めた。と――
「おやめなさい!」
凛とした一括が、笑いの渦を一瞬にして鎮めた。
「い、イザドラ太后様……」
そこに立っていたのは、前王デミトリウスの正室、イザドラであった。彼女がつかつかと歩み寄ると、兵士達は頭を垂れて後ずさる。
「この者に話があります。お下がりなさい」
兵士達は顔を見合わせ、口を噤んだ。おそるおそる隊長らしき兵士が口を開く。
「し、しかし太后様――」
「下がりなさい、と言っているのです」
ぴしゃり、と言葉を遮られ、隊長は首を竦めた。
「は、はっ!」
敬礼をし、兵士達が立ち去っていく。
後に残ったのは、イザドラとスコルピオスだけだった。イザドラはなにを言うでもなく、じっと彼を見つめていた。
重い沈黙に耐えかね、スコルピオスが口を開いた。
「……私を笑いに来たのか」
イザドラはそれには答えず、黙って彼に左手に握り締めたものを差し出した。それを見て、スコルピオスは驚いて彼女を見返した。イザドラが差し出したのは、彼が掛けられている手枷の鍵。
「貴方にとって――」
深く――どこまでも深く、哀しい目。
「私は、憎き仇だったかもしれません」
思えば、スコルピオスが最後にこの義母の瞳をまっすぐに見たのは、いつのことだったか……
「されど私にとって、貴方は血の繋がりこそなくとも、本当の息子でした」
その言葉を聞いて、スコルピオスの緋色の双眸から、温かい雫が零れ落ちた。立っていることもできず、無言で膝から崩れ落ちる。そんな彼を、イザドラは優しく抱きしめた。
「なにもしてやれなくてごめんね、スコルピオス……」
実の子供達に与えるのと寸分違わぬ抱擁に包まれながら、スコルピオスは嗚咽を漏らし続けた。
バルバロイ、アマゾン連合軍の手によって、アナトリア首都イリオンが陥落した。その報せは、まさに雷がごとくギリシャ全土を駆け巡った。
事態を重く見たアルカディア国王レオンティウスは、即座にアナトリアに対する敵対宣言を解除。全ギリシャによる東方防衛同盟の再結成を唱え、自ら先陣を切ってイリオンへの出兵を宣言した
祈りの詩に見送られ、勇敢なるアルカディオスが戦場へと向かう。その様子を、スコルピオスは群衆に紛れて見ていた。着飾った乙女達が、兵士一人ひとりに生還の祈りを込めて祝福を送る。
「……下らん」
あんなものは茶番に過ぎない。祝福された若者達の内何人が、再びこのブロンディシュオンの土を踏めるというのか。
ふと見ると、裏路地にうずくまる老婆が一人。涙を流しながら、誰かの名を繰り返し唱えている。息子だろうか。恐らくあの死すべき者達の中に、その名をした若者がいるのだろう。
なんとはなしにスコルピオスが老婆を眺めていると、ふと、彼女が目を上げた。涙と土に汚れた小さな目。その奥に光る瞳は、鮮やかな紫色をしていた。
「ひ――」
彼は驚愕し、後ずさった。忘れもしないあの色。今わの際に彼を見据えた、深い深い対の冥……
踵を返し、立ち去ろうとする。大通りで兵士達を祝福する乙女。その内の一人が、こちらを振り返った。真っ直ぐにスコルピオスを見据える、紫色の双眸。
「う、あああああ!」
彼がそこからどうやって逃げ出したのか、もうよく覚えていなかった。ただひたすら走り、彷徨い、そして、この廃墟に辿り着いた。
雨露を凌げる崩れ掛けた神殿の壁に寄りかかり、彼は虚空をじっと睨み付けた。それだけで、彼の脳裏に鮮やかに浮かんでくる光景。盲目のはずの少女。吸い込まれそうな紫を抱く瞳。アルカディアとラコニアに絶大な影響力を持つスコルピオスをして、思わずたじろぐその視線。
それに射抜かれたのはほんの一瞬のことではあったものの、確実に彼を捉え、そしてその瞬間から、彼は何かに捕らわれていたのかもしれない。
アルテミシア。
彼の腹違いの妹。雷神眷属の血を引く、憎き直系の雷。
元々殺すつもりだった者を、水神の生贄に捧げる。まさに一石二鳥のはずだった。
しかし彼を射抜いた紫色の瞳。池に落ちながら確かに呟いた一言。
その声を忘れない。
いつか必ず報いを与えよう。
彼には、彼女のその意思がはっきりと感じ取れた気がした。
豪奢な廃墟に転がり、冷たい雨に震える。
彼自身がもたれている壁があるはずの背後。そこから、雨の雫よりもなお冷たい抱擁が、スコルピオスを包み込んだ――